この人は何を見ているのだろう、、、。
目の前にいる話し相手に対して、そんな風に感じることがある。普通に会話をしているのだが、こちらの目をじっと見つめるその人の目に何が見えているのかと、すごく興味を惹かれるような感覚、、、。
先日、10年程前に熱心にレッスンに来てくださっていた方が亡くなったことをSNSで知り、とても驚いた。彼にはずっと会っていなかったし、時々思い出してはどうしているだろう、会いたいなと思っていた。楽しそうにこちらを見ながら話す彼の目を思い出し、しばらくの間感慨に耽った。
彼(Kさん)はダンディな紳士で、好奇心旺盛な読書家であり、なんというかちょっと遊び人風な方だった。その頃は新宿御苑前のマンションビルの一室でレッスンをしていたのだが、Kさんは毎週のように私のFIレッスン(個人レッスン)を受けに来てくれた。熱心に通ううちにワークショップにも顔を出したり、養成コースにまで興味を持ち会場まで見学に来たりするようになった。
フェルデンクライスのレッスン以外でも、面白そうな集まりがあるからと、何度か誘われて一緒に行ったたこともあった。レッスンをするプロとしては、クライアントと個人的な繋がりを作ることは抑制するのだが、例外が時々あり、Kさんはその一人だった。今になって考えてみると、お互いに個人的なことはあまり話さなかったし、私は彼の人生のことをほとんど知らなかったのだが、Kさんとの会話には広がりと同時に深さがあり、刺激的で、友人として楽しく付き合える人だった。
もちろん彼もフェルデンクライスに興味があったからレッスンに来たのだが、たいていのクライアントのように調子が良くないところを治すとか、動きを改善することにはあまり固執していなくて、むしろ興味があったのはレッスンの体験を通して自分自身の世界を広げることだったのではないかと思う。
フェルデンクライスのFIレッスンやATMレッスンで体験する鮮やかな「自己刷新感」は感性と知性に強く訴えるものがある。その感覚があるからこそ私がこれまでずっと続けてくることができたのだと思うし、レッスンのリピーターになったりプラクティショナーを目指そうとする人にも共通する体験だと思う。そして、Kさんもまた、FIレッスンの魅力にハマった人のひとりだった。
自分自身を「追求」することをエネルギーにして生きている人にとってフェルデンクライスの出会いはエキサイティングなものだ。
私たちは、何かを発見して有頂天になり、学び、忘れ、失敗することを繰り返す。その混乱の中で、進むべき方向を探し続けるのが私たちの人生だと思う。フェルデンクライスのレッスンでは、感覚的に大きな変化を経験し、自分が「新しくなった」とか「何かを取り戻した」と感じるが、その変化は日常生活の中で次第に消えていくように思われたりする。レッスン後の「変化」と「良さ」の感覚があまりにヴィヴィッドなので、逆に、一種の喪失感を味わうことさえある。
自分が繰り返しているその学習と失敗のプロセスを体を通して理解すると、人生はこの学習と失敗の繰り返しがあるから楽しいのだと思えるようになる。行きつ戻りつしながら目的地を探して変化し続ける自分の「心と体」こそが学習の素材なのだ。そして、フェルデンクライスのレッスンで素材として扱っている「動き」は、私たちの人生そのもののメタファーなのだ。
10年前に開催したフェルデンクライス・ジャパン10周年パーティの時、Kさんが当時の熱心なクライアントの一人として会場にいたのをはっきり記憶しているのだが、その後彼は何か新しい興味を見つけたようでレッスンに来なくなった。その数年後に、新宿御苑前から今のオフィスがある四谷坂町に引っ越したが、新オフィスで開催した15周年パーティには姿を見せてくれて再会を喜んだ。その時に彼の言ったことが記憶に残っている。
「ここは窓が大きくていいね!かさみさんには空が大きく見える空間が合ってる。」
「最近ようやくフェルデンクライスが何故体にこだわったのかが分かってきた気がする。また、レッスンに来るね!」
もっと話をしたかったが、それ以来会うことはなかった、、。
Kさんと私は、フェルデンクライスを通して出会い、ある意味で同じ方向を見ていたのかな思う。
彼のような人に「あなたがやっていることは面白い!」と言われたことを励みにして、もうしばらくこちらに留まってみようと思う。
好奇心いっぱいだったKさん、RIP
2024年9月25日 かさみ康子記